政治哲学を持った政治家はいないようですね。
茶器の話でも・・・。物を入れる容器の話でもない。人間の力量・度量・器量・・人間の器の話です。あの社長にしてあの程度の企業などと揶揄される場合があります。社長の器以上の企業にはならないとの意味です。
国も同じで・・・・首相の器は、国の力量であり、国民の器量です。この4年間で、首相が、5人も代わったなどと言うのは、民主主義が発達しているのでも、開かれた国であるのでもありません。ころころ代えないと不安でしょうがない・・・臆病で偏狭な・・器の小さい国民の現れです。
なぜ、そんな器の小さな国民性になったのかと申しますと、理由は二つ。一つは申し上げるまでもなく、メディアの軽薄さにあります。特に最近は、テレビ報道番組の軽さが、付和雷同する国民を形成しているのではと思っています。
もう一つは。首相になる準備もなしに・・・首相に成ってしまう軽さにあると思っています。議会制民主主義の弊害だと言えばそれまででしょうが。政治哲学(つまりは政治家の器ですが)を持たない政治家が首相になってはいけません。
器が出来ていないで…首相になれば・・・国は不幸になります。
少なくとも・・・自民党政権末期の安部・福田・麻生の各氏に政治哲学があったとはとても思えませんでした。民主党政権に代わって・・・・鳩山氏、私は友愛という政治哲学を振りかざそうとしました。残念ながら彼の中で友愛が信念まで醸造されていませんでした。・・・それを準備不足と言うのですが・・・生煮えの状態で潰れてしまった。それも準備不足です。
菅首相です。臨時国会での予算委員会での質疑を聞きました。彼のめざすべき「最小不幸社会」の実現とは何か?如何なる政治哲学に裏付けされているのか?論戦を聞くだけでは皆目分かりませんでした。
なぜ・・・分からなかったのか?理由は、やはり・・・宰相になる心構えと準備と、政治哲学が腹に収まっていないからだと思いました。首相の器ができていないのに、国民の政治的器ができる筈はありません。
この国は・・・残念ですが。首相に成ってから首相の器を作ると言う変な国です。
しかし・・・国には、そんな余裕はありません。
9月に実施される民主党の代表選挙で・・・菅さんが代わったとしても、政治哲学を持った大きな器の政治家が民主党にいるとは思えません。ここは・・・彼の成長を待つしかないってことになります。
それが「最小不幸社会」の始まりでは・・・笑い話にもなりません。
政治家は政治をめざした以上・・・総理の器とは・・を・・・考え続けて欲しいモノです。        Goto

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