脱・樹を見て森を見ず、の勧め・・・

私の頭が悪いせいで、全く理解できないコラムです。どなたか意味を教えて下さい。
毎日ブログを書いていますが。今日のテーマは自分が思うほどに上手くまとまらなかったとか。内容をもう少し深く掘り下げるべきだったとか。時間の都合で中途半端で〆てしまったとか。勝手に書くブログです。何を書いても良いのですが。実は日々反省の連続です。
誰も困らないのですから、悩むなら止めれば良いのですが。7年近く続けていますと、ほぼ日課です。朝新聞を読まないとムズムズするように、止めるとなると、それも、虚しい。続けられることが健康の証、元気の証明だと勝手に決めつけ、悩みながら今日も・・
月々に読む楽しみの一つに・・・ブログネタにも何度も使わせて戴いている・・文藝春秋掲載のコラム、塩野七生さんの「日本人へ」があります。切れ味抜群。ローマ帝国時代のリーダーの生き方と絡ませながら、日本のリーダーと日本社会を鋭くえぐる内容に勉強させて戴いています。
それが、どうしたことか。2月号の「脱・樹を見て森を見ずの勧め」は、何度読んでも頭に入らず、私には書いてある意味が全く理解できませんでした。等々、私も読解力が無くなり、ボケてきたのかと暗い気分です。どなたか、解説戴ければと思います。
「一年の最初ぐらいは難しいことに頭を使って良いのではと思う」と末尾にあるので、頭の悪い奴にはこのコラムの意味はわからないかもと記されているので、頭の悪い私が、理解できなくても仕方ないのですが。人間世界にとっての「森」とは「平和」の樹立。「樹」はその手段。
「樹」を論じるうちに「樹」は森の一部でしかないことを忘れてしまう。それを「手段の目的化」という。2014年は起こった問題のほとんどを2015年に難問化して先送ってしまった。と語りながら、平和の樹立こそが至高の目的ではないと否定しつつ、平和の恩恵を二点あげる。
一つは平和なら相当な成果を上げる能力を持つ。生産性を上げることができる平和とは、自由な精神の活動も同時に保障された状態での平和であり安定でなければならない、とのたまう。私には「森」が平和の樹立であると言いながら、その「森」を否定するのが全く理解できない。
コラムは、突然、話が変わり、古代ローマ時代の円柱を比べ、ムッソリーニが作ったファシズム時代の円柱には神経が通っていない。第二次世界大戦に突入するイタリアは平和だったのにと円柱の形で「森」(平和樹立)を否定する。これも私には「樹」とどんな関係にあるのか。チンプンカンプンで意味不明。
コラムは更に、難解になる。「樹を見て森を見ず」のためには情報やデータを信じるな?情報やデータ信じることは安全な場所逃げ込むことである。と続く・・・これも何が言いたいのか分からない。そして、極め付けの理解不能は、「樹は見つつも森を見ることも忘れてはいけない」・・・
アリストテレスも言っている。人間は政治的動物である。人間はやり方しだいで、政治的人間にもなれるが、政治的動物にもなりかねない。「樹を見て森を見ず」では「政治的動物」になってしまう。政治的であろうと何かろうと「人間」として生きたいと思いませんか。と締めくくる。
でどうなんですか問いたい。「樹を見て森を見ず」がどうなんですか。タイトルですから、それではいけないと言っているのか。「の勧め」と言うのですから。そうすべきと言うのですか?私の頭が悪いからでしょうが。何となくですが、弘法も筆の誤りと申しますが。
塩野七生さんも、お疲れで、魔が差して、意味不明なコラムを書かれたのではないかと思うのですが・・・それは失礼ですよねぇ。どなたか、頭の悪い私がわかるようにこの難解なコラムの意味を教えて頂けませんでしょうか?Goto

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