新聞大会の決議に思う

民主主義の根幹は報道の自由でしょうか。私は謙虚だと思うのですが。
このブログは「新聞を読もう」です。私は若い人が新聞を読まなくなったらこの国は終わりだと思っています。ですから、先週開催された日本新聞協会の第65回新聞大会での決議文には、この国を憂う新聞人の熱い思いがあります。
新聞大会決議文
戦後70年、新聞は平和と自由を希求し、多様な言論で国民的議論を深化させる役割を担ってきた。日本の安全保障政策が大きく転換しようとしている中、改めて新聞人の責任を自覚したい。民主主義の根幹である報道の自由は、戦後社会が最も尊重してきた理念の一つだ。しかし、政界の一部に軽んじる風潮が見られる。我々は如何なる圧力にも毅然たる態度で臨み、国民の知る権利に応えていく。(要旨です)
戦後70年。この国がまがいなりにも戦火に巻き込まれず、繁栄を遂げてきたのは、民主主義を守ってきた新聞の力と謳います。一翼を担ったことは否定しませんが。こんな視点をどう思いますか。この国の平和が維持できたのは米国の核の傘に甘んじて、経済成長を遂げるに軍事費を必要としなかったからで・・・
日米安保や自衛隊の存在を批判してきた新聞が平和維持に貢献したと言えるでしょうか?もう一つは、貧しさから脱却するために、勤勉な民族が、規格化された工業製品を一生懸命製造したから豊かになったのです。新聞メディアは果たして、勤勉な労働力を肯定したでしょうか。
労働者は弱者であるとの認識のもと、労働疎外をこと更にあげへつらい、労働は悪だと決めつけ、生産性の向上を否定してきたのは新聞ではなかったでしょうか。民主主義は経済発展を抜きには考えられないと思っています。
私には民主主義がよく分かりません。絶対だとは思えません。多様な言論を保証するのが民主主義だと言い切るのはいささか時代錯誤の気がします。国民の一人ひとりが自律すべきであると訴えることが現在の新聞に必要ではないでしょうか。新聞はあまりにも古典的民主主義に拘り過ぎではないでしょうか。
報道の自由を履き違えてはなりません。新聞はポピリズムに陥っていると思います。社会的弱者という言葉の美名の元に、全てを正当化する姿勢が奢りに見えて仕方がありません。弱者の立場に立つのが新聞。それで正義だなんて、絶対主義、封建主義の時代の名残です。
政治圧力で民主主義の根幹である報道の自由が侵されるほど新聞の力は弱くはありません。むしろ、政治をも動かす権力です。民主主義を振りかざすことが空回りしている気がします。むしろ、もう少し「謙虚」な姿勢が求められているのかも知れません。Goto

コメント

  1. Goto より:

    新聞は不滅です。そのためにどうあるべきか。どうすべきか。答えがあります。いつの日にかお話できればと思います。ありがとうございます。Goto

  2. 風来坊☆ より:

    この国が経済に集中できたのは、アメリカの軍事のおかげですね。
    軍事を気にすることなく、それに集中できたので今日があると思います。
    以前、新聞復活の奇策を考えています(持っています)と言っておられたこと、いつか聞かせてください。