川村耿介氏を偲ぶ

コロナ禍で、看板を観ながら古い街並みをブラブラするのがブームです。
私が中広の社長に就任した翌年だったので、33年ほど前の話です。
ある日当然「川村耿介だが、久しぶり。君親父さんを亡くしたそうだなぁ」
「社長になって困っていないか。俺が支えにいってやろうか」と電話が・・・
川村耿介氏とは・・熊本2区の代議士・川村継義先生の嫡男で先生の秘書。
学生時代、縁あって川村先生の書生をしていた私。そんなご縁で。
総選挙の折には2ヶ月ほど選挙区である八代市の選挙事務所へ。
そこで耿介さんと知り合いました。
彼の指揮の元、人吉・本渡・水俣・五木などの選挙区を走り回ったものです。
先生が引退され、耿介さんはてっきり先生の後を継いで政治家になると
思っていたのですが、彼が選んだ道は「街の看板屋」さんでした。
その耿介さんから突然の電話です。驚きましたが、
彼は10歳年上、文才もあり、企画提案能力は抜群、プランナーとしても優秀で、
政治の道に精通、音楽の才もあり加藤登紀子さんとは同窓。(ギターはプロ並)
もちろん、看板も書けます。手薄だったクリエイティブ部には打って付けの人材です。
私も新米社長、こりゃ持ってこいです。「お願いします」と即答。
それから、数日後、彼は身一つ、いやギターを抱いて・・・岐阜へ。
社内報の担当から始まって、本業の看板書きまで、約10年ほど実に様々な仕事をして
私を支えてくれました。その後、家庭の事情もあり故郷の熊本に戻りました。
最近、これもコロナ禍の影響でしょうか。
街中をブラブラと歩きながら、手書きの看板の文字を味わい鑑賞するのが
ブームだそうです。考えてみますと、私も烏の鳴かぬ日はあっても、
岐阜の歓楽街柳ヶ瀬に足を運ばない日がない時代がありました。
今ではシャッター通りになっていますが、賑わい時代の残り香のような
古ぼけた手書きの看板を観てますと、一瞬にして往時が蘇ります。
そんな看板を眺めながら歩くのは懐古趣味的ですが、芸術作品と出会えるかもしれません。
看板は今ではすべてITで制作されます。それはそれで、手書き以上のモノも
ありますが、でも、職人がペイントで汚れたシャツを着て、筆を舐め舐め、
寸法を計り書き下ろす様を・・耿介さんの姿ですが・・思い浮かべますと、
それなりの情緒と申しますが、温かみがあります。
その耿介さんが書いた看板文字が今でも岐阜の街にいくつか残っています。
手書き看板を観て歩くのがブームなんて知って、豪快な耿介さんを偲びました。合掌。
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