「属性と能力」の差別をどう克服するか・・・
外国人の労働者が増えました。
岐阜県でも美濃加茂市・可児市などでは生徒の3分1が外国人であるという
小中学校もあります。我が社では、このエリアで発行する情報誌で、
行政の担当部署からの情報をもとに、異文化への理解や、多様性についての
特集を定期的に組んでいます。
異例ではありますが。生活情報にスペイン語と併用した誌面を
作り、地域の暮らす外国人にも利用してもら得るように努力しています。
そんな情報誌を作りながら思うことは・・・
この国でこのまま少子化が続けば、間違いなく言えることは外国人の労働者を
今以上に受け入れなければならないってことです。それを移民政策といえば、
抵抗があるかも知れませんが、現実は労働範囲の制限が縮小され、なし崩し的に、外国人の労働者が増加しています。
つまり我々は、好むと好まざるとに関わらず、共生社会を形成せざるを得ないことになります。そのためには・・共生社会と真摯に向き合う必要があります。
共生社会とはどんな社会なのか・・・東大の福島智教授の考え方に共鳴しました。私なりに整理してみたいと思います。
共生社会とは・・・差別のない社会。
その実現に重要な課題が二つある。
差別には本質的に異なる二つのタイプがある。
その克服が共生社会実現につながる。
一つは属性に関する差別。もう一つは能力に関する差別です。
外国人への差別があるとすれば、それは属性に対する差別です。
属性とは性別・民族・障害・貧困・国籍をめぐる経済・社会的条件など、個人の特性や性質です。これらの属性に対する差別は、原理的には克服可能です。
なぜなら・・・偏見と無理解が原因です。
いずれも無くせば良いからです。
しかし、能力は違います。
ここでの能力とは知的能力を中心とする現代社会で求められる諸能力を指します。能力に関する差別は、どのような属性の持ち主にも向けられます。
とりわけ、障害が典型的です。そもそも「障害」とは、心身に何らかの機能・能力の制約がある状態を指すからです。
個人の属性の多様性を尊重することで、多様な発想や価値観の相互作用が生まれる。それによって、経済的価値の増大にもつながる・・・こうした趣旨の議論はよく聞かれます。しかし、この発想だけでは、能力の差に基づく差別を克服することはできない。それは、個人の能力の多寡が、その人の人間としての存在価値の多寡に連動してしまうという差別だからです。能力の相違は認めつつも、それを人の根本的な存在価値の評価と完全に切り離すことが必要になります。
容易ではありません。
共生社会を形成するには・・・
二つの差別を整理して立ち向かうことになります。
属性の差別では女性差別に注目することでしょう。
能力をめぐる差別には、さまざまな障害のある人の生きる意味や
その輝きに注目することが重要です。
私的には・・・私も含めて、我々は差別者であることを
まず持って自覚せねばなりません。そして差別者であることを自ら意識して
克服せねばなりません。あらゆる機会の場面において・・・
そうならない限りは、共生社会は存在しないと思います。Goto
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