朝日の天声人語を引き合いにブログを書いてみた。
私はブログのネタを新聞から頂いている。だから毎日、6紙の新聞に目を通す。でもいくつか自分なりのこだわりがある。その一つに朝日新聞の天声人語はネタにしたくないと思っている。
理由は簡単で、もう10年近くなるが、我が社の仲間に、朝日新聞の天声人語を毎日書写しようと呼び掛けている。天声人語はその日、その時々に読者が最も関心があるだろう話題を「朝日的」な切り口で603文字にまとめて主張する。
朝日的とは社会的弱者の側に立つことが正義であるという朝日独特の思考方法である。だから政権というものは「弱者」の側には立たないと決めつけている。
朝日新聞の読者が急激に減少したのは。二つの局面にあった。一つは戦後の55年体制が崩壊して非自民の連合政権が誕生した時、細川政権である。この政権はどんな支持基盤なのかが見えなくなった。朝日の「側」の姿勢がふらついた。朝日の購読者が朝日の主張に疑問を持った。
もう一つは文字通り、民主党政権が誕生した時だ。「側」の政権が誕生したのだ。政権に対して「批判のための批判を繰り返す」ことを旨とする朝日新聞は困った。でも自分たちの「側」に立つ政権なのだから支援するしかなかった。でも3年で瓦解した。朝日の主張はなんだったのか。読者の批判が朝日に向いた。読者が離れた。他にも読者離れが進んだ理由はあるだろうが、私は朝日の読者ばなれは、究極、この二つだと思っている。
天声人語をブログのネタにしないのは、世の中を斜に構えるのは良い。保守的とは言わないが、モノの見方が一面的になり易い時代だ。広告を生業とする我が社としては、阿るな、とりわけ権力には盲従するな。クライアントに役立つ広告はできない。
天声人語の切り口は広告を取り扱う上で、役立つ知識になると思うから書写を奨励している。さらに、天声人語には見出しがない。だから見出しをつけるようにしてはどうかと申している。それは広告を作る力になるからである。そして自分なりの主張があれば対比させて書いてみてはという。その意味では朝日の天声人語は、広告会社にとっては不可欠、お世話になっている。
でも私は天声人語をブログのネタにはしたくない。朝日は「側」を信頼していないのではと疑っているからだ。でもです。4/2付の天声人語は久々にブログネタになると思った。内容は朝日新聞(4/1付)に掲載されたサントリーの記事下広告について(天声人語で広告を扱うのは珍しい)である。
サントリーは毎年4月1日に・・・昨年の11月に逝去した伊集院静さんの「新社会人のために」と題して執筆を掲載していた。伊集院流の味わいのある文章で、若者を厳しく、暖かく応援してきた。今年は彼の執筆は叶わぬ。だから2000年に初めての原稿を掲載した。
4/1付の天声人語は伊集院静さんの初稿から「君は今、空っぽのグラスと同じなんだ」グラスの大きさはどれも同じ、学生時代の成績なんてたかが知れている。肝心なのは仕事に心棒に触れることだ。金儲けが全てなんて仕事じゃない」を引きながら、人生には、効率とは無縁なところから得られる何かがあると書く。
天声人語氏は、朝日入社した30年前、上手く原稿が書けなかった。経験を重ねれば、達意の原稿がスラスラと書けるのと思っていた。だが、今も呻吟の日々だ。新社会人であろうとベテランでも途上にある。まずは一歩踏み出す。向かい風を頬に感じたら、それは前に進んでいる証だ・・・と天声人語なりに新社会人にエールを送る。
この広告のコピーを引き合いに出したのは伊集院さんへの哀悼の意があるのだろう。でも伊集院さんの20年前のコピーは、辛いこともあれば愚痴も出る。斜めにもなりたくなる・・・でもそれは口にするな。酒を飲んで憂さを晴らし、明日、空っぽにしてまた、出掛ければいい。案外と酒は和みになる。と訴える。
そうです。酒を飲もうと言っているのである。天声人語の結びがジレンマに陥ったら「一歩踏み出せ」とは随分違う。伊集院静の無頼を知るひとりとして、宣伝のコピーが朝日新聞の天声人語に使われたと聞いたら・・・にやっとしてウイスキーを煽るのではないか。だから天声人語はブログネタにしたくない。Goto
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