新聞への提言

先が見えん・あかん・・新聞人は心のどこかで新聞を諦めていませんか?

このブログは「新聞を読もう」が主旨です。
新聞離れが止まりません。私如きが新聞を読もうではないかと・・
どれだけ叫んでも何の効果もないのですが・・・これだけは言えます。

新聞を購読している人は、社会を動かしている人です。
新聞も読まない人が社会の核心に触れる人生を送ることはできません。
なぜなら、新聞は「権力批判や社会問題を提起する唯一のメディア」です。社会を動かす人は、自分が正しいかどうか。新聞の記事によって擦り合わせることができるからです。知ることができるからであります。

新聞の現状について。触れます。
そもそもですが、新聞の源流は江戸時代の瓦版です。
現存する日刊紙・その最古は1872年(明治4年)横浜で創刊された
「東京日日新聞」(毎日新聞の前進)です。初期は政府の御用新聞であり、政党の機関紙的な役割を担っていました。その後、青森出身の陸羯南が独立系の新聞「日本」を発行「不偏不党」を掲げる新聞が主流になりました。

そもそもですが。新聞は「政治」権力の論争の場であります。
地方では明治・大正期に独自の国家観を持つ新聞が至るところで発行され、
廃刊しました。昭和に入り、軍部の力が強くなり、紙不足を理由に
政府が言論統制を。その結果、地方紙は一県一紙に統合されました。

戦後になり、全国紙は朝日・讀賣・毎日・産経・日経の体制が確立され、
高度経済成長とともに伸長。1997年には日本全国で約5376万部が発行されるようになりました。しかし、ネットの台頭により2023年には半減・約2859万部に。記者の数も02年には2万800人を数えていましたが、24年には1万5千人に。うち女性が25%を占めています。(いずれも新聞協会発表)

そんな現状の中。毎日新聞のオピニオン「論点」で「開かれた新聞委員会」委員を務める国際政治学者・若手論客と沖縄で米軍基地問題などについて鋭い論陣を張る・国際政治学者が対談「新聞への提言」が掲載されました。

この手の学者に共通するのは、新聞社は株式会社であることの認識がないことです。新聞はどうあるべきかは論じますが。新聞がどう生き残るか。経営的に成り立つかは論じません。新聞がその存亡の危機にあるのに。政権批判に工夫が足らぬとか。公共・必要性を自ら示せ・・・といくら力んでも、空転です。

日刊紙を発行するには、全国紙であれ地方紙であれ、損益分岐点があります。
記事を集め、紙面体裁を取り繕って輪転機を回し、販売店に送り、そこから家庭のポストに入れる。それが新聞ですから、それを維持する人と経費がなければ発行できません。その原資である新聞購読料・広告収入。音を立てて購読部数が減少しているのです。

その状況を改善しなければ、発行することすら、危うくなります。
現状では、経費削減と称して、新聞の基幹である記事。その記事を書く記者をリストラしているのです。そこを理解すれば、新聞はどうあるべきかなんて、とても論じることはできません。あまちゃんの議論です。

考えてみて下さい。
新聞業は江戸時代の瓦版が発祥。紆余曲折ありますが、陸羯南の時代、新聞を経営する人は井戸塀しか残らない。そう言われました。そうです。己の全財産を注ぎ込んで発行してきたのです。新聞とはそういうものです。言論とはそういうものです。

それがどこでどうなったのか。戦後・高度成長期、新聞が日本人の生活のライフスタイルに組み込まれ、5300万部も売れたのです。日本全世帯を上回るほどに。そうなりますと、新聞の論調が政治権力に影響を与える。あるいは政治を動かす勢力になったのです。マスコミは第四の権力と言われ。有頂天になったのです。そして、とんでもない高収益を上げる事業になったのです。それって凄いことじゃないですか。

でもそれは、戦後の僅か60年ほどのことです。そのことが如何なる産業と比べ、異常なことだったと言うことを、新聞の経営者は気づくべきです。そこに自らメスを入れねば新聞への提言にはなりません。目を背け、綺麗事を言っている場合ではないのです。

まぁ・・偉そうに言う私ですが。私に「新聞への提言」をせよと言われるとするならば。そんなことは永遠にあり得ませんが。新聞を購読するかどうかは「読者が決める」のです。購読しないのは、購読料を払う価値がないと読者が思っているからです。であるとするならば、いま読んで下さる読者(2800万部)が他の人にも新聞を購読するべきだと訴える記事を掲載することです。

それには、経営者自身の身を切る覚悟と新聞記者の溢れるような情熱によって書き上げられる記事。そして新聞人たちの燃えるような熱量ではないでしょうか。
だって、新聞を毎朝、6紙に目を通しているのですが・・・熱量を感じる記事に出会うのは稀ですからねぇ・・・Goto

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