秋を堪能する。

「秋深き 隣は何を する人ぞ」・・・芭蕉

9月も末に近づくと、挨拶が「涼しくなりましたね」
「秋ですねぇ」に変わりました。
「暑いですねぇ」に、「夏ですから」なんて、
タメ口を言わなくても良い季節になった。

地球温暖化の影響は、もはや科学の議論を越えて日常の実感となってきた。日本列島からは「四季が消えた」と嘆く声が上がる。かつての繊細な移ろいは影を潜め、いまや「春、夏、夏、冬」と揶揄される。あるいは「春、初夏、猛暑、冬」と表現する人もいる。つまり、秋が消えてしまうかも知れないのだ。

だとすれば、私たちはなお一層、秋を慈しまねばならない。忘れ去られ、気づかぬうちに通り過ぎてしまうには、あまりに惜しい季節だからである。

先日、朝日新聞の一面コラム「天声人語」は、空に浮かぶいわし雲、秋色に変わる風、そして「萩」の群生を題材に、秋を描いていた。すっと伸びた枝の先を赤紫に彩る萩。物静かな美しさを湛え、小判形の葉は愛らしく、その葉に空いた小さな丸い穴が、ハキリバチの営みを物語る。万葉の時代から詠まれてきた萩が、いまも小さな命を支えていることに気づかせてくれる。
なるほど、自然の循環を知る視点の奥深さ、さすがは名物コラムである。

だが、私の思いはさらに膨らむ。秋の光景は単なる季節の移ろいではなく、日本人の心そのものを形づくってきた。澄みわたる空に浮かぶ雲の薄衣。ひやりとした朝の空気に混じる金木犀の香り。稲穂の黄金色に波打つ大地。そして山裾を彩る紅葉の錦。すべてが静謐にして華麗、哀愁を帯びながらも気高さを失わない。これを「秋」と呼ばずして何と呼ぼうか。

古来より日本の文学は秋に心を寄せてきた。『万葉集』の歌人は、萩に寄せて人のはかなさを詠み、『源氏物語』では秋の夕暮れが最も情趣あるものと描かれる。松尾芭蕉は「秋深き 隣は何を する人ぞ」と詠み、与謝蕪村は「菜の花や 月は東に 日は西に」と、移ろう時の妙をとらえた。秋はただの季節ではなく、人生を映す鏡であったのだ。

その秋が、地球規模の気候変動によって揺らいでいる。温暖化が進めば、秋はますます短く、やがては忘れ去られる季節になるかもしれない。だが、だからこそ私たちは、このかけがえのない季節を心に刻み、文化として守り続けねばならない。

朝夕の涼風に頬をなでられる瞬間、路傍の萩の静かな彩りに気づくひととき。汗を拭わずに歩けるこの短い季節にこそ、人は自然と向き合い、自らの内奥を見つめ直すことができる。秋は人生を深くする。秋は人間を豊かにする。

だから私は宣言したい。この秋は、「秋を堪能したい」と心の底から思う。たとえ地球の気候が変わろうとも、私の胸のうちから秋を消すことはできないのだから。Goto

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