三月、花は咲いたか――決算という正念場
今年の二月は、異様なほど温暖であった。
本来なら身を切る寒さに震えるはずの季節に、どこか春を思わせる空気が漂った。東北、北海道、日本海側の雪の便りに心を痛めたのだが。
昨年四月、新年度が始まった頃もまた、季節の巡りはどこか急ぎ足だった。桜は例年より早く咲き、夏は異常な酷暑となり、秋は短く、冬は駆け足で去ろうとしている。
大自然は、人間の都合など顧みない。
だが、その移ろいの中で私たちは、必死に生きてきた。
そして一年を区切り、決算という節目を設ける。
三月。学校は巣立ちの場。行政は区切りの場。一年は三月で区切る。
企業の大半も一年を締める。売上も利益も、成果も課題も、すべてが数字となって示される。自然が巡るように、企業もまた巡る。蒔いた種はどうだったのか。根は伸びたのか。花は咲いたのか。昨年度と同じでは許されない。
思い起こすのは、渡辺和子さんの言葉である。
「置かれた場所で咲きなさい。」
三月とは、その問いに向き合う月だ。
営業は営業の持ち場で。
制作・クリエは制作の現場で。
管理は管理の立場で。
経営は経営の責任において。
それぞれが置かれて部署で一年を総括する。他と比べるのではない。
自らの持ち場で、どれだけ誠実に向き合ったかを問うのである。
「終わり良ければすべてよし」とまでは言わない。
だが、終わり方は確かに重い。
最後の一ヶ月をどう過ごすか。
最後の一押しをするか否か。
やり切るか、流すか。
その差は、決算書の一行だけでなく、我々の背骨に刻まれる。
三月は単なる年度末ではない。
二十五年度という時間を、どう締めるかの正念場である。
企業にとっても、人としての生き方にとっても、大きな節目だ。
花が満開でなくてもよい。
だが、蕾を育てたかどうかは問われる。
成果が十分でなくとも、根を張った一年であれば胸を張れる。逆に、環境や他人のせいにして流した一年であれば、どれほど数字が整っても心は軽くない。
大自然は黙して巡る。
私たちは意志をもって締めくくる。
三月は、置かれた場所で花が咲くかどうかの覚悟を示す月である。
柔らかく、しかし確かな決意をもって。
それぞれの持ち場で、静かに、そして力強く、花を咲かせようではないか。Goto


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