公教育の崩壊を憂う

自由を履き違えると国が滅ぶ。

私の考え方が古いのだろうか。時代に取り残されているのだろうか。
しかし、どうしても理解できない教育制度がある。

「ラケーション」である。
ラーニング(学び)とバケーション(休暇)を組み合わせた造語で、保護者と子どもが平日に休暇を取り、学校外で学ぶ制度だという。う〜む。さらに千葉県流山市では「子どもの休暇制度」が始まり、理由を問わず子ども自身の判断で学校を休むことができるという。う〜む。

私は率直に戸惑う。
もちろん家族との時間は大切である。学校だけが学びの場ではないことも理解している。社会見学や自然体験、親子の対話から学ぶことも多い。しかし、それと学校教育の価値を相対化することは全く別問題である。

人間学の立場から申し上げれば、人は自由だけでは育たない。規律の中で育つのである。
毎朝決まった時間に起きる。決まった時間に学校へ行く。友達と学び、先生に教わり、時には我慢し、時には失敗する。その繰り返しの中で、人は社会性を身につける。

学校とは単に知識を学ぶ場所ではない。
人と共に生きる訓練の場なのである。

日本が世界に誇る勤勉さ、規律性、協調性、礼儀正しさ。その土台を築いたのは、百年以上続く公教育制度である。さらに遡れば江戸時代の寺子屋文化があった。庶民が学び、読み書きを覚え、道徳を身につけたからこそ、日本は近代国家として発展することができた。

世界には学校へ行きたくても行けない子どもたちが数多くいる。戦争や貧困、差別や紛争によって学ぶ機会を奪われた子どもたちである。その現実を思えば、毎日学校へ通えることは決して当たり前ではない。感謝すべき恵みである。

ところが日本では、「疲れたから休む」「遊びたいから休む」ことまで制度として認め始めている。

私はここに大きな危うさを感じる。
自由とは責任を伴うものである。しかし子どもは未熟である。だからこそ大人が導かなければならない。楽な方へ流れるのは人間の性である。その性を律し、努力する力を養うのが教育の役割ではないか。

さらに懸念するのは格差の拡大である。
家庭の教育力が高い子どもは休暇を学びの機会に変えるだろう。
しかしそうでない家庭では単なる休暇になる可能性もある。結果として学力格差は広がる。

人生は甘くない。
努力した者と努力しなかった者に差が生まれるのは当然である。しかし教育制度がその差を広げる方向へ働いてはならない。
私は子どもたちに言いたい。学校へ行きなさい。友と学びなさい。先生に教わりなさい。
面倒なこと、嫌なこと、我慢しなければならないことの中にこそ、人間を成長させる養分がある。

教育は国家百年の計である。
首長の人気取りや一時の流行で揺らいではならない。
人を育てるとは、好き勝手を認めることではない。
社会の一員として生きる力を身につけさせることである。

自由を教える前に責任を教える。権利を語る前に義務を教える。
それこそが教育の原点であり、日本の未来を支える公教育の使命だと私は信じている。Goto

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