一日に一メートル。一旬で、成長する。
私のホームコース、岐阜関カントリー倶楽部。四季折々の気配を肌で感じながら歩くこの地で、昨夏、私は自然の深淵に触れた。
東コース5番から6番へ向かう左側にある竹林。
そこに、決して見ることのないはずの光景があった。竹に花が咲いていたのである。葉先の異変に気づき、キャディに問えば、「これが竹の花です」と静かに答えた。竹に花が咲くのは極めて稀であり、その周期は干支を超えるとも言われる。
そして、その後――竹は枯れた。今も枯れたまま。淋しい限りである。
あれほど青々と、しなやかに風に揺れていた竹が、静かに役目を終えた。人知の及ばぬ自然の掟か、あるいは厳然たる摂理か。理解しようとしても、到底及ばぬ世界がそこにある。
その一方で、である。どういう加減か、山の斜面にひっそりと咲く山躑躅の紫が、目に沁みるほど美しい。あの深い緑の中に、なぜあれほど鮮やかな紫が宿るのか。思わず足を止め、見入ってしまう。嬉しくなる。
――いや、いかん。今日の主役は筍である。
花を咲かせた竹は枯れる。ならば、その根から生まれるはずの筍はどうか。今年、5番ホールの竹林には、未だその姿がない。土は静まり返り、気配すら感じられない。今年はダメかも知れぬ――そんな思いが胸をよぎる。
しかし、私は筍が好きだ。理屈ではない。栄養価が高いわけでもない。だが、あの歯応え、ほのかな甘み、春の土の香りを含んだ旨み。まさに春の味覚の王者である。
だが、私が筍に惹かれる理由は、味覚に留まらない。その本質は「成長」にある。「一旬で竹になる」と書いて筍。実際には20日前後で竹へと変貌するという。条件が揃えば一日に1メートル以上伸びることもある。
4月中旬、まさに今の時期に爆発的な成長を遂げ、やがて10メートル、20メートルと天を衝く。そして、ある時、ぴたりと成長を止める。驚くべきは、その「瞬間性」である。
柔らかく、最も美味とされる時期は、土から顔を出すか出さぬか、その僅かな時間に過ぎない。遅れれば、ただの硬い竹となる。
人生に似てはいないか。
人にもまた、「旬」がある。
それは長くはない。準備を重ね、機を待ち、いざその時が来たとき、一気に伸びきる覚悟がなければ、ただの「可能性」で終わる。
竹は迷わない。地を割り、光を求め、真っ直ぐに伸びる。曲がることも、立ち止まることもない。その姿は、実に潔い。
我々はどうか。迷い、躊躇し、ときに歩みを止める。だが、それでもなお、土の中で力を蓄え、いざという時に飛び出す準備を怠ってはならない。たとえ、今年は芽が出ずとも。たとえ、時を逃したように思えても。
地下では、確かに命は繋がっている。
竹が枯れようとも、根は生きている。
その見えざる連なりの中から、いずれ必ず新たな筍が顔を出す。
それが自然であり、継承であり、命の真理である。
だからこそ思う。我々もまた、竹に負けぬ真っ直ぐさを持ちたい。
一度きりの人生、地に根を張り、天を仰ぎ、来るべき「旬」に向けて力を蓄え、その時が来たならば、一気に伸びる。
筍の如く、春である。
地中では、すでに次の命が息づいている。その鼓動を感じ取り、己の内なる力を信じ、真っ直ぐに、生き抜いていきたい。たとえ、喜寿を超えた私でもだ。さぁー。今宵は筍の刺身で月を愛でがら、一献だ。ゴルフのスコア表を破りすて。Goto


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