「ありがとう」と言える後期高齢者でありたい。
大阪・関西万博の閉幕式。(ちょっと古い話題だが)
吉村洋文知事の挨拶に、私は胸を打たれた。
関わったすべての人々へ、惜しみない「ありがとう」を重ねて感謝の言葉を述べる姿に、素直に感動した。ああ、感謝とはこれほどまでに清らかで、美しいものなのか――そう思わずにいられなかった。
その瞬間、私は改めて「感謝の奥深さ」を心に刻んだ。
かつて、こんな教えを受けた。
感謝には“循環”があるのだと。
自分が天に感謝すれば、天もまた我に感謝を返す。
それを「相応の理」というと。納得した。
天は「公平の不公平の公平」である。
感謝が篤ければ篤いほど、天の感謝もまた厚くなる。
天に報恩の想念を送ると、天はその思いに応じて、知恵という宝を授ける。
「感謝報恩の心が真実であれば、天は循環の理で蔵から知恵を授けて下さる」。私はこの言葉に、人生の原理を学んだ。学んだだけで身に付いてはいないが。
さらに、こうも教わった。
「世の中に不幸、不足はない。ないものを欲しがるな。あるものに感謝せよ。」あるがままを認め、あるがままに生きろと。自らが幸せを覚えれば、足るを知り、周囲の人々の幸せを願い、手を差し伸べることができる。
それこそが、人としての成熟であり、感謝の完成であると。
難しくて単なる耳学問の域をでない己が情けないが。
私は「全て善し」という言葉をよく使う。
起きて善し。早起きは尚善し。
寝て善し。早寝は尚善し。
居て善し。今ここに居るも尚善し。
全て善し、ああ有り難し。悪しきものなし。万事、感謝あるのみ。
この境地に立てたとき、人は“上機嫌”となる。
私の信条は、この二つに尽きる。
「上機嫌とは、全て善しにあり。」
「自分と自分の周りの人々の幸せのために生きよ、それ感謝報恩なり。」
喜寿を迎えるにあたり、改めて思う。感謝以外に、何があろうか。
過ぎし歳月、出会いし人々、試練もまた宝である。
生かされていること、そのものが有り難い。
その思いをもって、今日という一日を丁寧に生きたい。
私は、特定の宗教には組みしてはいない。だが、宗教家の教えに学び、宗教観というものの大切さを感じている。宗教とは、人の外にある神秘ではなく、己れの中にある“畏れ”と“感謝”の心だと思う。
哲学とは、己れとは何かを問うことであり、宗教とは、己れが決して勝つことのできない偉大なる存在を知ることである。哲学は理を磨き、宗教は心を磨く。そして、その根底に流れるものこそ「感謝」であると信じる。
感謝は、万物を貫く生命のリズムであり、人間を人間たらしめる根っこの力である。無能で、未熟で、まだまだ道半ば。喜寿を迎えても、なお足りぬ我が身。それでも学び、感謝しながら生きたい。
なぜなら、私は日本を元気にしたいと願っているからだ。
地域みっちゃく生活情報誌を、日本全国5千万世帯のすべてに届けたい――その夢を成就させるためには、何よりもまず「感謝報恩」の心がなくてはならぬ。天は、私の甘さを見抜いておられるだろう。だからこそ、謙虚に、丁寧に、感謝を積み重ねて生きたいと思っている。
今日という日は、私に与えられた最後の一日かもしれない。
そう思って、心の底から「ありがとう」を言おう。
人へ、自然へ、天へ、そして、未熟な自分へ――。
感謝こそ、永遠に循環するいのちの言葉である。Goto


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