新聞社は、いま「経営」を失っていないか
日刊紙の総発行部数は、1997年のピーク5400万部から、2025年8月のABC販売データで約2600万部へと半減した。これは単なる業界不況ではない。事業モデルそのものが、もはや構造的な限界を迎えているという明確な警告である。
私は新聞命であるが、同時に経営の端くれに身を置く者として、この現実から目を背けることは許されない。率直に言う。いまの新聞経営は、経営ではなく「惰性の延長線」にある。
読売新聞が500万部を割り込んだ時点で、全国紙としてのビジネスモデルは事実上、成立しなくなる。印刷、配送、人件費という固定費構造の重さを考えれば、これは感情論ではなく冷徹な損益分岐点の問題である。にもかかわらず、経営陣から聞こえてくるのは、「改革」「DX」「読者との対話」といった美辞麗句ばかりで、数字に基づいた抜本的再設計の覚悟が見えてこない。
収益が確保できない事業は、いかなる理念を掲げようと存続できない。新聞は慈善事業ではない。ところが実態は、他事業で糊口を凌ぎながら新聞を延命させる“企業グループの象徴事業”と化している。その姿は、事業としての自立を放棄した経営の敗北にほかならない。
加えて深刻なのは、新聞が自浄作用を失っていることである。部数減少の責任を、読者の高齢化やネットの普及といった外部環境に転嫁し、自らの編集姿勢や経営判断の誤りを本気で検証しようとする気配が乏しい。これでは、衰退は止めようがない。
毎日新聞が行っている「開かれた新聞委員会」のような試みは評価する。しかし、真摯な座談会が続いても、現実の部数が歯止めなく減り続けている現状を見ると、議論と経営成果が完全に乖離した“空回りに見えてならない。
新聞業界150年の歴史を思えば、このまま30年代に地方紙から瓦解していくという私の見立ては、決して過激でも悲観でもない。むしろ、経営として何の手も打てていない現状を冷静に見れば、必然的な帰結である。
それでも私は、なお新聞に期待する。
権力を監視し、弱者の側に立ち、社会の公器であり続ける使命だけは、最後まで捨てるな、と。そしてその使命を支えるのは、理念ではなく経営の覚悟と、有能な記者を育てる基本への回帰である。
経営を失った事業に未来はない。
新聞が再び「事業」として立ち上がれるかどうか――その分岐点は、すでに目前に迫っている。私の思い過ごしであって欲しいと心底願う年の瀬である。Goto


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