東証二部へ・・・・・・。
我社は07年2月19日・・・名古屋証券取引所「セントレックス」に上場致しました。IPO(株式公開)をめざしてから10年近い歳月が流れました。何度も・・・何度も諦めかけました・・・・。
なぜ・・私が株式を公開しようと思ったかを改めて述べて見たいと思います。
1、我社は「地域社会への貢献」を経営理念に掲げています。岐阜を、地域を、元気にしたい。そのためには広告業を通じて何ができるのか?広告業の使命を突き詰めた結果の理念です。
広告は経済の先兵。広告は社会を映す鏡と申します。地域経済を活性化するには広告の役割は重い。しかし。広告業に対する社会的な信用度が低い現実があります。その原因は、広告を扱う我々の側が社会的な認知を受けていないことに問題があると考えています。
社会的な認知を受けるには、事業に透明性、公開が求められます。業界最大手の電通は上場にあたって。「海外に進出するうえで、国際的に通用する透明性が求められる」と当時の社長は述べています。
私は共に働く仲間の社会的地位が向上すれば誇りを持って仕事ができる。
それには公開する必要があると考えました。
2、我社は岐阜県に本社があります。岐阜県の上場企業は28社(当時)しかありませんでした。それにサービス業での上場企業はゼロでした。第三次産業の重要性が叫ばれている折に、地方でサービス業の上場企業がないのはおかしい。では・・・我社が岐阜県のサービス業で始めての公開企業になってやろう。と、地方で事業を営むものの意地のようなものも発露でした。
3、上場をめざした当時・・・新興市場に上場する企業の経営者は、30代の若い世代が中心でした。社会の中心に位置して・・・日本経済をけん引しなければならない団塊世代に活力がなく・・・リタイアへの坂を転げ落ちるような状況に怒りを覚えていました。
団塊世代の一人として、まだまだ・・・団塊世代がしょぼくれてはいけない。もう少し気概を持って生きなければだめだ。田舎暮らしの団塊世代でも頑張って上場すれば・・・同世代に元気を与えることができる。そんな私なりの思いが公開したいとの夢を膨らませました。
それが理由でした。
その結果・・・関係各位の温かいご支援頂き、幹部、社員、スタッフの努力が実り、名古屋証券取引所「セントレックス」に上場することができました。
が・・・上場して間もなく・・ご案内の通り・・・リーマンショック見舞われました。田舎の広告会社など・・・シエアー等知れたもの。影響などさほどではないと思って高を括っていましたが・・・日本経済は想像を絶する勢いで・・・収縮・・・広告業界も経費削減の波に飲まれ・・・我社も難しい環境に置かれました。
その環境下、収益を落とす結果となりましたが、従来の広告代理店から地域密着型生活情報誌事業・・つまり・・代理業からメディア企業への業態転換を推し進めることが、生き残る道であると心に決めてまいりました。
その結果・・32期は、SP部門の売り上げは落ちましたが、メディア部門が堅調な伸びを示し、わずかですが黒字転換を報告することができました。
33期にあたって・・・・「メディア企業」をめざす路線をより明確にする時期に来たと判断。更にはこの2月から・・新規事業「フリモ」(地域総合ポータルサイト)もスタート。岐阜から三重、滋賀、福井と生活情報誌の輪を広げてきましたが、この7月、念願の名古屋市・中村区にも発刊することができました。
とりわけ、「モバイル」と「生活情報誌」を組み合わせた「フリモ」事業は、地域情報とITを融合させたメディア事業です。全国展開を視野に入れることのできた事業だと認識しています。
事業をさらなる高みに押し上げるには・・・全国展開できる体制をするには・・・折角、上場させて頂いていますので、名古屋証券取引所から東京証券取引所に指定替えして、全国展開を図る必要があると判断しました。
中期経営計画の柱に・・・東証二部への上場を掲げました。 Goto
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