朝日新聞・天声人語が述べる懺悔と二つの9月18日
9月18日、朝日新聞の名物コラム「天声人語」に目を通した。そこに綴られていたのは、ひとりの記者としての懺悔であり、同時にジャーナリズムの原点を問い直す覚悟であった。
私はその率直な姿勢に敬意を表したい。
新聞の歴史を振り返れば、発行部数の推移はその時代の世相を映す鏡である。朝日新聞は最盛期には800万部といわれたが、近年は350万部を割り込んだとされる。新聞命の私にとっては驚くべき数字だ。新聞社の収入源は大別して二つ。ひとつは購読料、もうひとつは広告料である。発行部数の減少は広告効果の低下を意味し、出稿が減れば収益は直ちに圧迫される。購読料が半減以下となれば、経営の苦しさは察するに余りある。
しかし私は、発行部数が減ったからといって新聞の社会的影響力が即座に落ちるとは思わない。
理由は単純だ。新聞を購読し続ける層は、社会的に発言力や影響力を持つ人々だからである。広告もその層を対象にするクライアントを選べば、一定の価値は維持できるはずだ。問題は読者をつなぎとめる紙面の質である。経営が厳しくとも、記事のレベルを落とせば自ら寿命を縮めるだけだ。
さて、この日の天声人語は「9月18日は二重の意味で私たちの新聞に多くを教え続ける日」と記した。1931年、満州事変が勃発。朝日は社説で軍を批判したが、弾圧を受けて筆を曲げた。敗戦後の1945年9月18日には、戦争を煽った新聞としてGHQから発行停止処分を受けた。
記事は「原爆投下を戦争犯罪とする要人の寄稿を載せたため」とするが、私はそれだけではないと思う。戦争責任を免れなかったことこそ、本質であろう。
コラムは結ぶ。「ジャーナリズムとは権力に対し、いかなる距離をとるかにある。圧力からも、しがらみからも自由に、ものを言う覚悟である。軍部に屈した史実を噛み締め、重い歴史を省みて頭を垂れる」と。そこには権力監視の使命を忘れまいとする決意があった。
私は思う。朝日新聞が真にその精神を貫くためには、まず経営の安定が不可欠だ。天声人語氏がいかに懺悔を重ねても、経営を安定させること。それは購読料以外の収入を求めることである。
その上で記事そのものが社会に警鐘を鳴らし続けねば存続は危うい。
社会の耳目を集める記事を提供し続ける限り、新聞の未来はある。
頑張れ、朝日新聞。9月18日の懺悔を胸に刻み、なおも権力と対峙する気概を持ち続けよ。私はその行方を見守りたい。 Goto


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