三月下旬――いよいよ25年度の年度末だ。
この時期になると、胸の奥にひとつの感覚が蘇る。「通知表」である。
企業にとっては決算が一年の通知表だ。売上、利益、成長の軌跡が、容赦なく数字で突きつけられる。行政もまた三月議会において前年度の総括と新年度予算を審議する。
学校においては言うまでもない。卒業生にとっては進学試験が、そのまま評価の証となり、それ以外の生徒もまた、手渡される一枚の紙に一喜一憂する。人はいつの世も、「評価」から逃れることはできない。
そもそも日本の通知表は、明治期の近代教育制度の整備とともに始まった。当初は学業成績を簡潔に示すものであったが、戦後になると、知識偏重からの反省を踏まえ、「関心・意欲・態度」など多面的な評価が取り入れられた。
現在では、観点別評価として「知識・技能」「思考・判断・表現」「主体的に学習に取り組む態度」の三本柱が主流となっている。
では世界はどうか。
米国では、A・B・Cといった成績評価に加え、教師の詳細なコメントが重視される。個々の成長や課題を言葉で伝える文化である。イギリスも同様に記述式評価が多く、成績は序列というより進捗の指標として扱われる。
スウェーデンはさらに特徴的で、低学年ではそもそも成績評価を行わず、子どもの自己肯定感を重んじる。オーストラリアも到達度ベースで評価し、絶対評価が基本だ。韓国は日本に近く、成績競争の色合いが強いが、近年は総合的な評価への転換を模索している。
こうして見ると、日本の通知表の特徴が浮かび上がる。几帳面で均質、しかしどこか画一的である。そこにはいくつかの課題も見える。第一に、数値や記号による評価が先行し、個々の個性や背景が見えにくいこと。第二に、「できる・できない」の二分法が、子どもの可能性を狭める危うさ。第三に、評価される側が受け身になりやすく、主体的な学びへの転換が難しい点。そして第四に、評価そのものが目的化し、本来の「成長を支える」という機能が弱まりがちなことである。
思い返せば、私もまた劣等生であった。通知表を受け取る日の、あの重たい足取り。開くまでの緊張と、開いた瞬間の落胆。今も鮮明に蘇る。
だが、歳月を経て思うのは、あの一枚が人生のすべてではなかったという事実である。評価はあくまで一時の断面に過ぎぬ。人の価値は、紙一枚で決まるほど浅くはない。
それでもなお、人は評価と共に生きる。経営者たるもの、決算書という通知表から逃げることはできない。むしろ堂々と向き合い、その結果を次への糧とせねばならない。良かろうが悪かろうが、そこに現れるのは、紛れもなく自らの歩みである。
年度末――。
通知表に落胆した少年の日を思い出しながら、
今、我々は別の「通知表」を手にしている。
ならばこそ、こうありたい。
結果に怯えるのではなく、結果を引き受ける覚悟を持つこと。通知表とは、過去を裁くものではない。未来を切り拓くための、静かな指針なのである。そう思いたい。ちょっと格好よ過ぎかな。Goto


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