政治に無関心では、捻り潰される。
新年度が始まった。人は暦が変わることで、どこか気持ちを新たにする。しかし、現実の暮らしはどうか。制度がどう変わるかで、生活の実感は大きく左右される。政治とは遠い世界の話ではない。我々の日々の営みそのものに直結している。その当たり前の事実を、改めて噛み締めたい。
今年度の特徴は、教育に関する政策が目立つ点である。私立高校授業料の実質無償化は、その象徴だ。公立に続き、私学も上限45万7200円まで引き上げられ、世帯年収に関わらず支援が及ぶ。
教育は国家百年の計と言いながら、ここまで来るのに、なぜこれほどの年月を要したのか。本来、等しく学ぶ機会を保障することは、国家の責務である。ようやく一歩前進したことは評価するが、遅きに失した感は否めない。
給食費の軽減も動き出した。児童一人当たり月5200円が国から配分される。確かに前進ではある。しかし、どこか中途半端だ。子どもたちの昼食は、単なる食事ではない。成長を支え、学びの土台を整える「教育」の一部である。
それを家庭の負担に委ね続ける発想自体に、違和感を覚える。世界有数の経済力を持つ国が、なぜこの程度の決断を躊躇するのか。優先順位の問題である。国家の意思の問題である。
もう一つ、長年の課題であった「年収130万円の壁」にも手が入った。働き控えという歪みを生んできた制度に対し、残業代を含めない算定へと見直されたことは、現場の実態に即した改善である。働く意欲を削ぐ制度は、社会全体の活力を奪う。今回の見直しは、遅ればせながらも理にかなった一歩だろう。
だが、ここで立ち止まって考えたい。なぜ、これほどまでに「当然の改革」が小出しにしか進まないのか。そこには、財政を盾に慎重を装いながら、実質的には現状維持を志向する力学が働いている。負担増には敏感に反応する一方で、負担軽減には極めて鈍い。そうした構造が、長年にわたり温存されてきた。
政治は本来、国民生活をより良くするためにある。だが現実には、「できること」よりも「やらない理由」を積み上げる傾向が見受けられる。そこに甘んじる政治、そしてそれを許容してしまう空気が、改革の速度を鈍らせてきたのではないか。
人間学の視点で言えば、これは「責任の所在」と「志」の問題である。自らの立場に安住し、小さくまとめるのか。それとも、未来に責任を持ち、大胆に決断するのか。国家運営もまた、人間の在り方の延長線上にある。
新年度、暮らしは確かに少しずつ変わる。しかし、その変化は、決して自然発生的なものではない。一票を投じた国民の意思、現場で声を上げ続けた人々の積み重ねの結果である。逆に言えば、無関心であれば、何も変わらない。
我々は問われている。与えられた制度の中で生きるだけの存在で良いのか。それとも、より良い社会を求め、考え、声を上げ続ける主体であるのか。
教育も、労働も、すべては人をつくる営みである。国家のかたちは、結局のところ、そこに生きる人間の質によって決まる。であればこそ、政治を他人事にしてはならない。暮らしを見つめることは、国家を見つめることであり、自らの生き方を問い直すことに他ならないのである。ちょっと力が入り過ぎた。Goto


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