日本人の政治感情に横たわる均衡志向
3月以降、首長選で自民党推薦候補の敗北が続く。石川県知事選を皮切りに、清瀬、西宮、練馬、南房総、東金、あま、嘉麻——点ではなく、線として眺めるべき現象である。党大会での強気な言辞とは裏腹に、足元では静かな地殻変動が起きている。
結論から言えば、有権者はもはや一本の串ではない。三色団子である。国政で自民に投じた票が、そのまま地方へスライドする時代は終わった。
国政は国政、地方は地方。政策の射程も、利害の肌触りも異なる。にもかかわらず、旧来の分析は「支持率の延長線」で説明しようとする。この固定観念こそが、現実を見誤らせる。
地方選は、極めて実務的だ。現職には「約束を守ったか」という一点が厳しく問われる。新人同士なら「誰に任せるか」という人物本位へ収斂する。
看板や地盤、コネは、もはや決定打ではない。むしろ、それに依存する姿勢自体が減点対象になりつつある。有権者は理念よりも履行、レトリックよりも実績を見ている。合理主義的な選別が進んでいるのだ。
さらに見落としてはならないのが、日本人の政治感情に横たわる「均衡志向」である。いわゆる判官贔屓の現代的変奏だ。強者を嫌うわけではないが、過度な集中には本能的なブレーキが働く。
衆院選での「勝ち過ぎ」は、心理的には「行き過ぎ」に映る。国政と地方の双方を同一勢力が握ることへの違和感——これが静かな逆流となって、地方での揺り戻しを生む。高市人気の高まりが、そのまま地方の勝利に転化しないどころか、むしろ逆相関を帯びる可能性すらある所以である。
そして、決定的に重要なのが情報戦だ。SNSの非対称性が、選挙の地形を変えた。発信しない者は、存在しないに等しい。とりわけ無党派の浮動票は、日常的に接触する情報の中で意思形成を行う。
そこに顔を出せない候補は、選択肢にすら入らない。古い首長にこの弱点が多いのは否めない。組織戦の精度より、個の発信力が勝敗を分ける局面に入っている。
総じて言えば、今回の連敗は「自民党だから負けた」のではない。「自民党であること以外の説明を持てなかった」から負けたのである。国政の追い風に安住し、地方固有の課題に対する解像度と、個としての説得力を磨き切れなかった帰結だ。
政治は生き物であり、民意はさらに気まぐれである。だが、その気まぐれには一貫した理がある。分散、履行、均衡、そして接触——この四つを外した者から、静かに退場していく。来春の統一地方選は、その検証の場となるだろう。メディアの政治部諸氏には、支持率の曲線だけでなく、この地殻のうねりをこそ、克明に描いてほしい。Goto


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