たかがライチョウ、されどライチョウ

氷河期の生き残りを救った国の情熱。熊に向けられぬ不思議を問う。

ライチョウが、また山へ帰っていった。
国の特別天然記念物であり、絶滅危惧種。氷河期の生き残りとされるこの鳥は、標高二千メートルを超える高山帯にしか棲めない。夏は岩場の間で虫をついばみ、冬は雪の中に巣穴を掘って身を守る。

自然の変化に誰より敏感な「天空の住人」だ。だが近年、地球温暖化や登山客の増加、キツネなどの外来捕食者により個体数は激減。日本では推定二千羽ほどまで減ったといわれる。

環境省はこの小さな命を救おうと、人工飼育・野生復帰の実験を続けてきた。動物園などで孵化させたヒナを山に戻し、自立して生きられるよう技術を確立する試みだ。今年は国内四か所で飼育された二十羽を、二回に分けて中央アルプスに放つ。そのうち長野県の中央アルプスでは生息数が順調に回復し、放鳥は今年が“最終章”になるという。

復活作戦の舞台裏は、まるで国策ドラマだ。
各地の動物園で育った五羽のライチョウが駒ヶ根市に集結。職員が一羽ずつ健康を確かめ、環境省に引き渡す。

そこから車を乗り継ぎ、ロープウェーで標高二六一二メートルの千畳敷へ。さらに職員が箱を背負い、急峻な登山道を五時間かけて山荘へ運ぶ。息を切らせて登る職員の背中に、命の重みがある。山頂では信州大の研究者たちが待ち構え、体重や健康状態を確認し、ゲージで慣らしてから十日後に放鳥する。

責任者の教授は「六十年、鳥の研究をしてようやく鳥の気持ちが分かるようになった」と笑う。半世紀を超えてライチョウの声を聞き続けた人の言葉には、真実の重みがある。飼育員は「飼育中に食べた高山植物を思い出し、自分の力で生きていってほしい」と見送った。

そこまでして、なぜ守るのか。
ライチョウは、単なる鳥ではない。氷河期から続く日本の自然の“記憶”そのものだ。国はこれまで、新潟県佐渡でのトキ保護に巨額の予算を投じ、世界的な成功例として誇ってきた。

だがトキが「国際協力と外交の象徴」だったのに対し、ライチョウは「山と暮らしの象徴」であり、地味で絵にならない。ゆえに支援は細く、研究者の熱意でかろうじて保たれてきた。今回の「最後の放鳥」は、ようやくその努力が実を結んだ証である。

たかがライチョウ、されどライチョウ。
この鳥の背後には、気候変動、観光開発、外来種、登山マナー、
あらゆる人間活動の影響が絡む。放鳥は“自然保護の総決算”なのだ。

それに比べて、熊の問題はどうか。
連日のように人里に現れ、被害が絶えない。熊の気持ちが分かる学者はいないのか。鳥を救う国はあっても、獣と向き合う国はない。熊の扱いは林野庁、警察、自治体と縦割りでバラバラ。結局、誰も責任を取らない。

思うに、ライチョウと熊の違いは“予算と情熱”である。
小さな鳥には優しく、大きな獣には冷たい。
人に牙をむく熊より、写真映えする鳥を守る方が、
政治的にも安心ということか。

政治家よ、ライチョウに注いだ愛情の半分でいい。
熊とも語り合える学問の体制と制度をつくってほしい。
鳥も獣も、人も共に生きる国こそ、美しい日本である。Goto

コメント