―文化勲章受章者を讃えつつ―
11月3日、文化の日。
今年もまた、文化勲章の受章者が表彰される。長年にわたり、それぞれの分野で研鑽を積み、日本の文化に多大な貢献をされた方々に、心からの敬意を表したい。芸術、学問、音楽、演劇、文学――そのどれもが人々の心を豊かにし、国の品格を支えていることは間違いない。
しかし、私はあえて問いたい。「文化とはなんぞや」。
文化勲章という形で顕彰される文化は、いわば“高尚な文化”である。だが、文化の本質はもっと身近にあるのではないか。
私の持論を言えば、文化とは“生活様式”である。
人が毎日をどう暮らすか、何を美しいと感じ、何を良しとするか――
それらの総体こそ文化なのだと思う。
庶民の生活に根差したものが受け継がれ、時代を越えて守られる。そうして形づくられていくのが文化である。だからこそ、文化は常に変化する。「不易流行」というが、流行のなかにこそ文化の芽がある。流行が人々の暮らしに溶け込み、やがて生活の一部となったとき、それは不易――変わらぬ文化となる。
逆に、一時の気まぐれや虚飾に過ぎないものは、やがて自然に淘汰されてゆく。そこに「良い文化」と「悪い文化」の違いがあるのだろう。
芸術も芸能も、もとをたどれば人々の生活から生まれた。祭りの舞も、農耕の歌も、庶民の日常の祈りや感謝の表現だった。やがてそれが洗練され、伝統芸能となり、国の文化と呼ばれるようになったに過ぎない。
つまり文化とは、もともと上から与えられるものではなく、下から湧き上がるものである。だからこそ私は思う。文化とは、その土地の風土と共に生きる「生活の記憶」であり、「歴史の息づかい」であると。
新しいモノを生み出すことも素晴らしいが、それが文化になるのは、時を経て人々の暮らしに根づいたときだ。
文化勲章を受けた方々の功績も、もとをたどればその道を支え、継承し、生活の中に光を灯してきた営みの延長線上にある。改めて、文化を生み、守り、伝えてくださったすべての人に敬意を捧げたい。
文化の日にあたり、私たちもまた、自らの生活の中に息づく“文化”を見直してみたい。箸の使い方、季節の挨拶、家族との食卓――そこにこそ、本当の文化があるのだから。
Goto


コメント
前に書き込まれた宮本輝、道頓堀川の一遍
「夕日や星を見るよりも、夜の繁華街を見ろ。そこには必死で生きる姿がある」
うちの店はご存じの通り、昭和の詩人や作家の言葉が黒板に載せております。
そこには、人間の痛みがあるからです。
世の中は僕の手の届かない素晴らしい作品にあふれてます。
しかし、名もなき人たちに勇気、意気、負けん気を与えてくれるものは
限定的です。
世の中のアンダーグラウンド、カウンターカルチャーにこそ、
価値がある。
名もなき人々の物語そのものが
私の文化です。
最後に、
私の一番好きな歌、阿久悠の時代遅れ
似合わぬことは無理をせず
人の心を見つめ続ける
時代遅れの男になりたい
ねたまぬように
焦らぬように
飾った世界に流されず
時代遅れの男になりたい
そんな店にしてから何年も経過しました
心の中にある文化を
いつまでも耕し続け広げたいです。
オイダさん
コメントありがとうございます。
最近、ガツンとぶん殴られた一節に出会った。
「忙しくて勉強する時間がない」と言うなかれ。
「勉強する時間がない奴は、たとえあったとしても勉強などしないものだ」
中国前漢時代「淮南子」2000年も前に書かれた言葉です。
私は「暇だが勉強しない、高齢者」にはなりたくないです。
後藤拝
ご指摘のとおりです。文化にあたる英語の
culture は、耕すという意味です。農耕に起源を持っています。人類の文化は農耕から始まりました。人間の日々の営みを支えている世に知られていない人々にも文化勲章をあげたいですね~。例えば人々を幸せにするハッピーメディアを発行している会社の会長さんやスタッフに!
藤掛先生
無沙汰お許し願います。
恐縮です。
後藤拝