ナラティブ戦争ではない

年度末に問う、エネルギーの覚悟

年度末である。企業も個人も、この一年の積み残しを整理し、次へ進む覚悟を固める節目だ。課題を先送りすることは、やがて取り返しのつかない歪みとなって跳ね返る。これは経営も国家も同じである。

いま世界は不穏だ。イスラエル、そしてトランプ政権下の米国によるイラン攻撃。ホルムズ海峡の安全が揺らぐ現実は、日本にとって他人事ではない。原油の約9割を中東に依存するこの国にとって、エネルギーの途絶はそのまま国家の危機に直結する。もし緊張が長期化すれば、産業も生活も根底から揺らぐ。

震災から15年。日本のエネルギー政策は揺れ続けてきた。「原発ゼロ」を掲げた時代から、「依存度低減」、そして「最大限活用」へ。さらに「60年超運転」「次世代革新炉」へと舵は切られている。この変化を「変節」と批判する声もある。しかし、政治とは理想だけで成り立つものではない。現実の制約の中で、最適解を模索し続ける営みである。

電力が不足し、価格が高騰し、産業競争力が削がれる――そんな事態が現実味を帯びたとき、理念だけで国は持たない。冷徹な現実が、選択肢を狭めていく。

だからこそ今、あえて原発反対の声を整理する必要がある。

「再生エネルギーの時代だ」と言う。しかし現実はどうか。再エネは拡大しているとはいえ、安定供給という観点では未だ主力とは言い難い。天候に左右され、蓄電技術も道半ば。メガソーラーは自然破壊との摩擦を生み、風力も立地問題を抱える。加えて、太陽光パネルの多くを海外に依存する構造は、エネルギー安全保障の観点からも脆弱だ。

「電気料金高騰は化石燃料と円安のせいで、原発とは関係ない」との主張もある。確かに一理はある。しかし、だからといって安定供給の基盤をどうするのかという問いには答えていない。批判はあっても、代替の実行可能な構想が乏しいのが現実だ。

さらに問題なのは、反対の論調が「推進派批判」に終始している点である。「ナラティブ戦争だ」との指摘もあるが、では自らのナラティブ、すなわち国を支えるエネルギー像を提示できているのか。そこが見えない。

結局のところ、現時点で日本が取り得る現実的な選択肢は限られている。化石燃料依存を減らし、再エネの技術革新を待ちながら、その橋渡しとして原発を活用する。この三層構造以外に、現実解は見当たらない。

原発は危険だ――その通りである。しかし「危険だからゼロ」という議論は、もはや現実逃避に近い。リスクは管理し、技術で乗り越えるものだ。航空機も医療も同じくリスクを抱えながら社会を支えている。原発だけを特別視し、思考停止に陥るべきではない。

むしろ問うべきは、「どうすれば安全に使えるか」であり、「どうすれば次のエネルギーへ移行できるか」である。そのための時間を稼ぐ現実策として、原発の最大限活用と次世代革新炉の開発は避けて通れない。

政治とは、理想と現実の狭間を歩むものだ。理想だけでは国は守れない。しかし現実だけでは未来が描けない。その均衡点を探るのが政治の責任である。

年度末のいま、我々もまた同じ問いを突きつけられている。先送りか、決断か。

反対を「趣味」にしてしまえば、何も前に進まない。もちろん多様な意見は尊重されるべきだ。しかし国家の存立が問われる局面においては、どこかで方向を定め、力を結集する必要がある。

エネルギーは国家の血流である。その血流を止めてはならない。

再生エネルギーの革新を待ちつつ、現実として原発を活用する。この覚悟を持てるかどうか。ナラティブ戦争などではない。日本はいま、その分岐点に立っている。Goto

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