青(あお)春(はる)を満喫せよ、高校球児たち・・・
さぁ・・・106回・全国高校野球選手権大会が阪神甲子園球場で・・今日から始まります。我が郷土、岐阜名門・県立岐阜商業高校が決勝戦で6対5、もつれた試合となり延長11回・岐阜城北高校に競り負け。全国大会の出場権を逃した。
岐阜城北は、シード校を次々に撃破、最後に王者・県岐商に食らいついて県予選を掴み取った、この粘りを発揮して、甲子園で大暴れして欲しい。7月末に高島屋が撤退、市民の会話も何となく元気のない岐阜ですが、「下剋上」を成し遂げた、斎藤道三のような城北高校に期待したい。
甲子園ってなぜ、甲子園っていうのですか?ご存知ですか?
今年、阪神甲子園球場は誕生100年です。まずはおめでとうございます。
と申し上げたい。甲子園って誰が造ったのか。阪神電鉄の三崎省三(1867〜1929)社長が生みの親です。明治維新が1868年ですから、生まれは江戸時代です。
三崎は19歳で渡米。パデュー大学で電気工学を学び、帰国後、阪神に入社
路線新設など、交通網整備や沿線開発に貢献した。三崎の資料が残っているが、留学中の1891年ごろの日記に三崎が描いた野球に興じるイラストが。1908年の三崎の手帳には球場のダイヤモンドが描かれている。そこには寸法も表示され、英語で「500✖️350フィート」本塁とバックネットの距離は90フィート(27メートル)と記され。甲子園開場時と同じである。
ということで、甲子園を発案し、熱い思いで甲子園球場を造ったのは、私も知りませんでしたが、阪神電鉄の三崎省三社長ということです。でです。ネーミングは武庫川の治水工事で支流の枝川と申川が廃川となったことで、余剰地がでて、それを阪神が購入。起工したのが1924年3月、8月1日に竣工した。
その年が「干支」で甲子(きのえのとし)だったことから、甲子園大運動場と命名された。よって甲子園の甲子とは干支に起源している。知れば、な〜んだってことですが。なるほどと思わないでもない。
甲子園100年史をペラペラと捲って思うのは、1924年・明治期のエネルギーです。当時の甲子園大運動場は8万人収容・米国の野球場でも最大規模であったこと。起工から竣工までわずか、4ヶ月半で完成したことです。日本人のど迫力・大阪・関西の活気が読み取れます。
そして、何よりもすごいと思うのは、開場時、配布されたパンフレットの類には、工事関係者の連名はあるものの、三崎の名はどこにもない。一説によると三崎の銅像を建てるべし、なんて話も持ち上がったのだが、彼は断った。
これだけの大事業を成し遂げたのに、甲子園誕生100年で初めて、その経緯が語られ知った人が多い、私もその一人だが。彼曰く「誰が建てたかではない。(名声がほしいのではなく)誰でもが使え、楽しんでもらえ、役に立つものが創りたかった(米国に負けぬ日本人の体位向上の為にも)」と家族に語っている。
そんな誕生100年を迎えた阪神甲子園球場。ここで青春の限りを尽くして闘う、
高校球児たち・・・その熱戦に、この国の未来を感じたい。岐阜代表・岐阜城北高校がんばれ・・・Goto
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