働き方改革の陳腐化

人はもっと自由に働いて良いのではないか?

私は「働き方改革」そのものには異論はないのですが、
労働時間の短縮を一律に押し付ける風潮には強い違和感を覚えます。
働きたい人の報酬と権利をまで奪いかねない。国家や企業の衰退に直結しかねないからです。二つの事例を通して、改革の陳腐化を指摘したいと思います。

労働を悪とみなし、働き過ぎは絶対悪と決めつける風潮は、マスコミが「角を矯めて牛を殺す」ごとき誤りを犯しているのではないでしょうか。どのメディアとは申しませんが。

そんな視点から二つの事例を紹介します。

一つ目は、愛知県豊橋市の取り組みです。同市は農業が盛んな地域です。
担い手不足は深刻。農業従事者は15年で4割減少。平均年齢は65歳を超えています。そこで市は、課長以下の職員に副業で農業現場で働くことを認める制度をスタートさせた。週8時間、月30時間までという制限付きです。市長は「人手不足の解消と現場感覚を持つ職員育成の両立が可能」と説明しています。

しかし、私は思います。
これは場当たり的な対応に過ぎない、と。副業とはいえ、職員に業務命令のように農業をさせるのは本末転倒です。農家にしてみれば、中途半端な職員がきても、かえって迷惑かも知れません。農作業は相手が生き物です。肥料や餌やりを時間で切り上げることなどできない。こんな制度を考えているなら、豊橋市の農業再興は到底見えません。

二つ目は、愛知県豊川市の「回転ドア」方式と呼ばれる仕組みです。
関西電力の社員が、市役所の非常勤職員として、週一回オンラインで勤務し、
月一度は窓口に立つ。本人は刺激的で楽しいと語り、キャリア形成にもつながっています。

確かに民間の知恵が市役所に入るのは有意義ですが、労働時間は倍加し、余暇は減る一方です。働き方改革の「労働時間抑制」という考え方からすると、矛盾を抱えているのではないでしょうか。大企業だから許されるのか。公務員の職務だからこそ成立しているのか。いずれにせよ整合性には欠けます。

この二つの事例に共通していることは「働き方改革」の名の下に
本来の目的と逆行するような取り組みが行政絡みで生まれているという点です。
労働時間の制限を絶対視する一方で、副業や新しい働き方を奨励する。
結果として「働き過ぎはダメ」と「もっと挑戦せよ」が同居する矛盾に陥っているのです。

私は思います。
働き方改革の概念をいったん外せば、もっとシンプルになるのではないか。
個人が自らを高め、新しい仕事にチャレンジする。働くことを制限するのではなく、働く自由を広げることこそ、真の改革ではないでしょうか。
人それぞれの意欲に応じて働き、報酬を得ることこそ健全な社会をつくります。私はそう信じます。Goto

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