この国の体たらく。団塊世代の責任です。敬われるより、恩返しを。
今日は「敬老の日」だ。国民の祝日。休祭日の多い日本。果たして「敬老の日」なんているのか?必要なのか?考えて見たい。
なぜ生まれたのか。
昭和22年・兵庫県多可町で「としよりの日」として始まったのが起源。
長く生きてきた人を敬い、知恵を借りようという素朴な発想から全国へ広がった。しかし、人生100年時代を迎えた今、この祝日の意味は再定義が必要ではないか。
老子は「老」は単なる年齢ではない。深い経験と徳を積んだ存在を意味した。
だが、現代社会にそのような尊敬はあるだろうか。リタイアしてゴロゴロ、日課は医者通いと、世相に文句ばかり、社会奉仕でもすれば良いのに、テレビの番。
「年をとっただけ」と冷笑され、高齢者は社会の負担とみなされる場面すら多い。老害だ。
私自身、喜寿を目前に控える身だが、最近富に思う。この国をこんな国にしたのは我々の世代であるという自覚から逃れることができない。
今の日本社会を見れば「気分が悪いから人を殺したかった。誰でもよかった」といった無差別事件が起きる。儲かれば手段を選ばず、楽して金は欲しい。
人権は声高に叫ぶが、隣人への思いやりは薄い。動物愛護には熱心でも、隣の高齢者には無関心。マスコミの情報を鵜呑みにし、自分の考えを持たない人々。
長幼の序も惻隠の情なんて、どこにもない。
では、この責任は誰にあるのか。
私は団塊世代を代表して断言しよう。「我々にある」と。
高度経済成長を走り抜け、日本を繁栄に導いたと自負する一方で、
便利さと豊かさの裏側に「自分さえ良ければ」という風潮を根付かせたのも
我々だ。だからこそ、「敬老の日」など返上しても良いのではないか。
少なくとも「高齢者を敬え」と上から言われるような祝日は不要だ。
むしろ、この日を「自省の日」と位置づけ、高齢者が己を省みて社会にどう還元できるかを考える日にしたい。知恵や経験を若い世代に伝える、地域で汗をかく、子や子孫のために声を上げる。そのようにして初めて、年齢を重ねた者の存在が真に尊ばれるのではないか。
「敬老」とは、敬われて当たり前という特権ではない。
努力してなお、他人のために働こうとする姿勢があってこそ、敬意は自然と生まれる。自戒を込めて、私はそう考える。まずはゴミ拾いだ。Goto
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