新聞の著作権

著作権って、そんなに狭い話だったか

著作権とは何だろうか。本来は、創作した人の権利を守り、文化の発展を支えるための仕組みである。決して「囲い込み」や「萎縮」を生むためのものではない。

ところが最近、新聞社の著作権を巡る姿勢に、どうにも首を傾げたくなる場面が増えた。日経新聞に掲載された「新聞の著作権」に関する広告をご存知だろうか。

――社内でのコピー、スキャンは侵害。
――テレワーク中の社員への共有も侵害。
――記事を写真に撮ってSNSに投稿すれば侵害。
なるほど、法律論としては理解できる。

新聞記事をPDFや画像にする行為は「複製権」、社内ネットワークで共有すれば「公衆送信権」に該当し、原則として著作権者の許諾が必要だ。
ここまでは、確かに著作権法の教科書通りである。

しかし、である。
行政が「おらが町が新聞に載りました」と職員に知らせる。企業が「うちの記事が出た」と社内で共有する。学校の授業で、新聞記事を切り抜いて社会を学ぶ。これらまで一律に「有料」「許諾が必要」と言い切ってしまって、本当に新聞の価値は高まるのだろうか。

著作権法には、報道・教育・引用といった公共性を重んじる例外規定が存在する。引用であれば、主従関係が明確で、出典を示せば許される。国会議員が新聞記事を基に質問するのも、民主主義を機能させるための当然の行為だ。

それを、萎縮させてどうするのか。
そんな批判に応えるように登場したのが、日経の「スマートクリップ」だ。記事を自動でクリッピングし、社内共有できる有料サービス。要は、「著作権侵害が怖いなら、うちの仕組みを使いなさい」ということだ。

ビジネスとしては分かる。
業者が記事を集約し、営利目的で二次利用するなら、対価を求めるのは当然だ。だが、新聞を購読している行政や企業の日常的・常識的な活用まで縛るのは、どうにも行き過ぎではないか。

新聞は、社会の共有財産でもあったはずだ。広く読まれ、語られ、引用されることで、世の中に影響を与えてきた。それを「無断は侵害」「有料でなければ不可」と狭く囲い込むことは、新聞自らが新聞の力を削いでいるように見えてならない。

新聞命の私として思う。
守るべきは、文化であり、信頼であり、公共性だ。著作権は、そのための“盾”であって、“囲い”であってはならない。

さて――こうして新聞の著作権を論じるこの文章も、侵害になるのだろうか。
もしそうだとしたら、新聞はもう、語られる存在であることをやめたのかもしれない。Goto

コメント