戦争の悲惨を風化させるな。

名古屋市が高校生の請願によって平和の日を制定。

小山内美江子さんが94年の生涯を閉じられました。
深くお付き合いをさせて頂いたわけではありませんが。
尊敬する師・福岡政行先生の縁にてお目に掛かる機会を得ました。

そのご縁のお陰で、私が所属するロータリークラブで、カンボジアに
小学校を寄贈させてもらった。その打ち合わせで東京で一度、岐阜にお越し頂き、カンボジアで2度、謦咳の機会を得た。

東京ではポルポト政権によって、カンボジアの教育事情が破壊された現状を伺い。当時の金額で日本円で350万円あれば「小学校が1校できる」と知り、ロータリーの国際奉仕活動の一環として寄付を募り。タケオ地区に、今でも「岐阜加納ロータリー小学校」が建っています。30年ほど前の話です。

その落成式にカンボジアを訪れたおり、プノンペンで、真っ黒に日焼けした小山内さんに再会。安宿で暮らすボランティアの学生たちと、学校建設の現場に通う姿。あの「3年B組金八先生」脚本家・小山内美江子さんの真髄に学んだ。

毎日の余録に追悼のコラムが。そこに小山内さんの原点が記載。1945年、勤労動員で横浜の軍需工場に駆り出された15歳の小山内さん。空襲でB29の爆撃を逃れながら、実家に辿り着く。焼け跡で残された金庫を見つけ、内部の箱を取り出した。それが、横浜都市記念館に残っている。戦争に振り回された15歳の体験が「反戦」に、そして戦火で破壊されたカンボジア教育の振興に力を入れた原点だと知った。改めて、小山内美江子さんのご冥福を祈る。

14日「なごや平和の日」の式典が名古屋市の主催で開催された。
名古屋市は全国の都市で5番目に多い約8千人が戦争の空襲で犠牲になった。
市が主催する慰霊行事は初めての試み。

この「追悼」式は先輩たちが軍需工場に動員され空襲で亡くなったことを知った
東邦高校の生徒らが、市に「平和の日」制定を呼び掛けて実現。同校の前進、商業高校の生徒・教員が1944年12月13日、動員中に空襲に遭い、20名が犠牲に。戦後同級生らが供養を続けてきた。戦後の50年1995年にはその軍需工場の破片で校内に「平和の碑」を建立。毎年慰霊行事を行なってきた。

この学校の戦争を風化させない。平和への想いを貫いてきた姿勢が実に尊い。
でも空襲の惨状を聞き次いだ生徒有志が「学校内だけの追悼で良いのか」このままでは忘れ去られるのではないか。危機感を募らせ・・・この活動は名古屋市の空襲の慰霊、市が取り組むべきではと、生徒会が「名古屋市空襲慰霊の日」の制定を市に提出。18年度に市議会に請願書を届けた。

この高校生らの熱意に名古屋市長が呼応。
空襲で国宝の名古屋城天守閣が炎上した5月14日を平和の日と定める条例案を
河村たかし市長が提案、全会一致で可決。慰霊式典に漕ぎ着けた。

空襲から80年、高校生が自らの活動で「戦争の悲劇」を語り継ぐべく、名古屋市に「平和の日」を設けたこと。とても嬉しく思う。あの空襲で焼け野原になった地域は日本に限りない。他の地域でもそれぞれに戦争にまつわる悲惨な状況があったはず「平和の日」を高校生が先頭に立って、進めてもらいたい。

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