武器輸出解禁

時代は変わった。ほんとうかいな。

重い問題である。私ごときが軽々に論じてよいものではない。それでも、時代の節目に立ち会う者として、書かずにはいられぬ。

高市政権は、防衛装備移転の枠組みを大きく転換した。従来、日本は「武器輸出三原則」を基礎に、長らく禁輸を原則としてきた。これを2014年、安倍晋三政権が「防衛装備移転三原則」として緩和し、限定的な輸出を認めた。

その際も、①平和貢献・国際協力、②日本の安全保障、③国際共同開発など、厳格な「5類型」によって歯止めをかけていた。

だが今回、その枠組み自体が撤廃された。完成品の輸出、第三国への移転、さらには戦闘に使用され得る装備の供与まで、政府判断のもとで道が開かれたのである。

理念としての制約から、運用としての判断へ。これは小さな修正ではない。
「国のあり方」の転換である。

世論は拮抗している。賛否は割れ、戸惑いが滲む。しかし政治は、すでに方向を定めている。昨年の連立合意、そして衆院での多数。この流れは偶然ではない。戦後日本の安全保障観が、ゆっくりと、しかし確実に地殻変動を起こしてきた帰結であろう。

だが、ここで二つの問いが浮かぶ。

第一に、日本に「売るべき兵器」があるのか、という現実である。技術立国と言われながら、防衛分野では長らく内需中心、閉じた体系で育ってきた。世界市場はすでに米欧露中韓が席巻する。

価格、性能、運用実績、政治的影響力――そのいずれにおいても後発の日本が食い込む余地は狭い。理念を変えても、現実は容易に追いつかぬ。

第二に、市場の壁である。東南アジアやインドは魅力的に見えるが、供給網は既に固定化されている。武器は単なる商品ではない。国家間の信頼、歴史、外交、軍事ドクトリンが絡み合う「関係の結晶」である。後から参入して切り崩せるほど、甘い世界ではない。

それでも、この道を選んだ意味はどこにあるのか。高坂正堯は国家を「力・利益・価値」の体系と説いた。今回の転換は、明らかに「力」と「利益」に重心を移す試みである。だが、日本が長く拠り所としてきた「価値」――すなわち平和国家としての矜持は、どこに位置づけられるのか。

人間もまた同じである。力を求め、利を追うことは否定されぬ。しかし、それだけでは人は人としての深みを失う。節度とは、己を縛る鎖ではなく、己を保つ背骨である。

戦後日本は、その背骨として「武器を売らぬ国」という道を選んできた。時代が変わったのは事実であろう。だが、変わるべきは手段であって、魂ではないはずだ。

老いた平和主義者の感傷と言われれば、それまでである。それでも思う。国家もまた、人と同じく、どこで立ち止まり、何を守るかで、その品格が決まるのではないか。

この決断が、日本に何をもたらすのか。力か、富か、それとも失われる何かか。答えは、これからの我々の在り方に委ねられている。Goto

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